本のハコ

超個人的読書メモ

『風土』和辻哲郎 2

「外に出る」ことを根本的規定としているのはかかる我々であって単なる我ではない。従って、「外に出る」という構造も、寒気というごとき「もの」の中に出るよりも先にすでに他の我れの中に出るということにおいて存している。これは志向的関係ではなくして「間柄」である。だから寒さにおいて己を見いだすのは根源的には間柄としての我々なのである。

すなわち我々は「風土」において我々自身を、間柄としての我々自身を見いだすのである。このような自己了解は、寒さ、暑さを感ずる「主観」としての、あるいは花を歓ぶ「主観」としての「我れ」を理解することではない。

これってどういうことだろうか。人間は「寒さを感ずることによって寒気をみいだす」んだけれども、その時に個人の主観っていうか、個人と寒気とが一対一のやりとりをするんじゃなくて、周りの人の様子とか、社会の常識とか文化とか道具とか表現の仕方とか、なんか「我々の蓄積」みたいなものを土台にして、それを頼りに寒気に対峙する、みたいなことなんだろうか。

何かを理解しようと思った時、相対的に観察したり理解したりするほうが効果的だし、誰かの知識や経験の集積をわけてもらえたほうが効率がいい。だから個人としての我よりも、間柄としての我々のほうがより重要になるんだろうか。

独身の頃、1人で生きていた自分が感じる孤独と、今、家族を失って味わう孤独と、どっちが辛いかと考えたら、今の孤独のほうが数倍恐ろしい。一概には言えないが、喜びとか幸せも1人だった頃とはちょっと質が違う気がする。寒い暑い感覚だけじゃなくて、寂しさとか幸福感みたいなものにも「間柄」が影響してるのかなって思った。

前節において風土の現象は人間が己を見いだす仕方として規定せられた。ところでその人間とは何であるか。それについての詳しい考察は他の研究に譲ってここでは立ち入らない。(おおよその輪郭は既刊『人間の学としての倫理学』の中に描かれている。詳しくは近く刊行すべき『倫理学』を見られたい。)

次はこれを読もう。