本のハコ

超個人的読書メモ

『初稿 倫理学』和辻哲郎

一二  『人間の学』の意義  (一)人間の問

人間の学とは『人間とは何であるか』と問うことである。そうしてこの『問うこと』は、一般的に云って、人間の一つの存在の仕方に他ならぬ。然らばこの際問うこと自身がすでに問われていることであり、問うもの自身が同時に問われているものである。ここに人間の学の本質的な特徴が存する。それは人間がおのれ自身を問題にするということである。即ち人間が自覚的に存在するということである。人間の学とは人間の自覚的な存在の仕方に他ならぬ。

 

『風土』を読んで残った疑問の一つが、人間が自分自身のことについて考える時はどうなのかということ。

寒さとか砂漠だとか、自分の外にあるものと自分との関係を現象学的に捉える、っていうのはなんとなくわかるようになってきた。でも自分と自分の組み合わせの場合ってどうなの?それがこの先に書いてあるのだろうか。これから読む。

 

『風土』和辻哲郎 2

「外に出る」ことを根本的規定としているのはかかる我々であって単なる我ではない。従って、「外に出る」という構造も、寒気というごとき「もの」の中に出るよりも先にすでに他の我れの中に出るということにおいて存している。これは志向的関係ではなくして「間柄」である。だから寒さにおいて己を見いだすのは根源的には間柄としての我々なのである。

すなわち我々は「風土」において我々自身を、間柄としての我々自身を見いだすのである。このような自己了解は、寒さ、暑さを感ずる「主観」としての、あるいは花を歓ぶ「主観」としての「我れ」を理解することではない。

これってどういうことだろうか。人間は「寒さを感ずることによって寒気をみいだす」んだけれども、その時に個人の主観っていうか、個人と寒気とが一対一のやりとりをするんじゃなくて、周りの人の様子とか、社会の常識とか文化とか道具とか表現の仕方とか、なんか「我々の蓄積」みたいなものを土台にして、それを頼りに寒気に対峙する、みたいなことなんだろうか。

何かを理解しようと思った時、相対的に観察したり理解したりするほうが効果的だし、誰かの知識や経験の集積をわけてもらえたほうが効率がいい。だから個人としての我よりも、間柄としての我々のほうがより重要になるんだろうか。

独身の頃、1人で生きていた自分が感じる孤独と、今、家族を失って味わう孤独と、どっちが辛いかと考えたら、今の孤独のほうが数倍恐ろしい。一概には言えないが、喜びとか幸せも1人だった頃とはちょっと質が違う気がする。寒い暑い感覚だけじゃなくて、寂しさとか幸福感みたいなものにも「間柄」が影響してるのかなって思った。

前節において風土の現象は人間が己を見いだす仕方として規定せられた。ところでその人間とは何であるか。それについての詳しい考察は他の研究に譲ってここでは立ち入らない。(おおよその輪郭は既刊『人間の学としての倫理学』の中に描かれている。詳しくは近く刊行すべき『倫理学』を見られたい。)

次はこれを読もう。 

『風土』和辻哲郎

これも、休校期間中に読んだ本。ちょうど暖かくなってきた頃で、裏庭にいすをだして1日読書したりしてた。まだ蚊がいなかったから。夫は昼寝、上の子はゲームと動画、下の子はリコーダーでエーデルワイスの練習してたな。たのしかった。

この本は難しくて、おもしろいと思って読めたところは全体の半分くらいか。いや、もっと少ないかも。第1章から早くも意味不明だったしなあ。どうも現象学を知らないと、まともに読めない本だったみたい。

「寒さを感ずるとき、我々自身はすでに外気の寒冷のもとに宿っている。我々自身が寒さにかかわるということは、我々自身が寒さの中へ出ているということにほかならぬのである。」これがどういう意味なのか。どうしてもわからず、何度も読みかえして考えてはみた。けど、いまだによくわからん。いったん『風土』はおいといて現象学読んでみようか。けど、難しそう。私にわかるだろうか。

自分と寒さの関係についてだけを単独にぐるぐる考えては、??ってなる状態が続いてたんだけど、実はこの先に、まだ続きがあった。

  • 寒さに己を見いだすのは、間柄としての我々。なぜなら寒さを体験するのは我のみではなく、我々。それが可能なのは寒さを共同に感ずるという地盤においてのみ。他の我の中に出る。
  • 寒さという気象的現象を独立に体験するのではない。暖かさや暑さ、風、雨、雪などとの関連の中で体験されるもの。
  • 引用「このような自己了解は、寒さ暑さを感ずる「主観」としての、あるいは花を歓ぶ主観としての、「我れ」を理解することではない。我々はこれらの体験において「主観」に目を向けはしない。寒さを感ずる時には我々は体を引きしめる、着物を着る、火鉢のそばによる。否、それよりもさらに強い関心を持って子供に着物を着せ、老人を火のそばへ押しやる。あるいは着物や炭を買い得るために労働する。炭屋は山で炭をやき、織布工場は反物を製造する。すなわち寒さとの「かかわり」においては、我々は寒さをふせぐさまざまの手段に個人的・社会的に入り込んで行くのである。同様に花を歓ぶときにも我々は「主観」に目を向けるのではなくして花に見とれる、あるいは花見に友人を誘い、あるいは花の下で仲間とともに飲み踊る。すなわち春の風景とのかかわりにおいては、それを享楽するさまざまの手段が個人的・社会的に実践せられるのである。同様なことは炎暑についても、あるいは暴風洪水のごとき災害についても言えるであろう。我々はこれらのいわゆる「自然の暴威」とのかかわりにおいてまず迅速にそれを防ぐ共同の手段に入り込んで行く。風土における自己了解はまさしくかかる手段の発見としてあらわれるのであって、「主観」を理解することではない。」

認識の対象が、寒さ暑さとか、雪とか砂漠とか、そういうものである場合と、人間である場合とで、考え方っていうか捉え方?みたいなものに違いが出てくるのか?自然が相手でも人間が相手でも基本は一緒?

時間がかかりそうだけどおもしろいから、現象学の本、なんか読んでみよ。その後でもう一回『風土』読もう。

『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム

2月の終わりにコロナによる休校がはじまって、ちょうどその頃に読んでた本。

 フロムは、個人と社会は密接に影響しあうと考える。それよりも前、フロイトの頃は、個人と社会とを切り離して考える傾向があったらしい。社会には抑圧的な機能と、創造的な機能があって、それらが人間に影響を与え衝動を生む(個人差の発生)。そして人間に生まれた衝動が、今度は社会に影響して、社会を変えていく。このリピートが歴史、って書いてあったと思う。

この本は全体主義にはまる人たちの心理を分析しようとした本で、出版は第二次世界大戦真っ只中の1941年だ。全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとする全ての行為の前提である、本書は予測よりも診断、解決よりも分析であるが、その結果は我々の行為の進路に一つの方向を与えてくれる、とフロムは序文に書いている。診断、分析がメインで、解決策についてはうっすらとしか書かれてなかった気がする。あまり印象に残らなかったっていうか、ぴんとこなかった。愛と仕事だったか…ほとんど覚えてない。また今度読み直してみよう。

 例えば、自分はどんな環境で育ち、どんな動的適応をしつつ現在の自分に至ったのかを分析することができれば、「その結果は我々の行為の進路に一つの方向を与えてくれる」のか?何かが見えてくるのか?

簡単にだけど、ちょっとやってみよう。私の40年ちょいの人生の中で、よく似た内容の、うれしくない経験が2回あった。ひとつめは、子供の頃、高校の数学教師で学歴至上主義の父から受けた厳しい叱責と暴言、ふたつめは昨年まで勤めていたパート先で。あれもパワハラに入るのかな。ちょっとしたことで激キレてスタッフに当たり散らす先生とのつきあいが、毎日たいへんだった。メンタルに難のある先生だった。6年勤めたけれど昨年解雇されて退職した。先生が30も年下の若いスタッフと2人きりになりたくて、他のスタッフ全員の首を切ったためだ。その子からセクハラの相談を受けて、辞めた後になって、その驚きの動機を知ったんだけど。

なんていうか、父とこの先生はよく似たタイプで、ストレスのはけ口に当たり散らされ傷つけられる、という被害の内容は同じ。けれど、父の時と先生の時とでは、私がどのような動的反応をおこしたかという点がまるで違う。それはなぜなのか。

 ざっくりと2つの事件を振り返ってみよう。

  • 幼少期:父による執拗な罵倒→精神をやられる→影響絶大
  • 結婚・出産後:パート先でのパワハラ→線引きした対応ができる→影響なし

 加害側の共通点は?

  • 当たり散らす性格
  • すぐ怒鳴る
  • すぐキレる
  • しかもキレるタイミングがわからない
  • 外面はよい
  • 人を傷つけてプライドを保つ
  • 悪いことをしている感覚がない、むしろよくしてやってると思ってる
  • 立場の弱い相手を選ぶ
  • 自身のメンタルが弱い
  • ストレス値が高い
  • 親とうまくいってない
  • 妻と不仲
  • 子供が病む

加害側の相違点は?

  • 加害側の人物が私にとって大事な人物か、そうでないか
  • 私にとって一番重要な集団に属する人物か、そうでないか
  • 加害側の人物にとって私の存在が重要か、そうでないか
  • 私の命、生活をにぎってる人物か、そうでないか
  • 逃げられる相手か、そうでないか

被害側の共通点は?

  • 反抗できない
  • ガマンするしかない
  • サンドバッグ的立場
  • 力関係において弱い(上下の下の立場)

被害側の相違点は?

  • 私に激しい動的適応がおこったか、そうでないか(幼少期はあり、パート先ではなし)
  • 年齢(人生のステージ)が違う
  • 所属する家族が違う(生まれ育った家族と、新しく築いた家族)
  • 味方がいるか、いないか(母・祖母は傍観して関わらず。今は信頼できる家族がいる)
  • ターゲットが1人か、複数か(妹は父より優秀なので被害がなかった。先生の場合は、お気に入りの若いスタッフ1人以外、出入りの業者・宅配さんに至るまで手当り次第攻撃)

 父の執拗な(しゃべるインコみたい。とにかくしつこいのだ)暴言が、私にどのような反応をひきおこしたか。

  • 自分はバカで落ちこぼれである、価値のない人間であると思い込む。
  • 社会への恐怖心が生まれる。就職、恋愛、あらゆる社会的な関係を怖がるようになる。
  • 積極性の欠如。
  • 人間関係における過剰な緊張感。
  • 人見知り。
  • 逃避から生じる怠惰。もしくは怠惰から生じる逃避。これはワンセット。動かないことで様々なチャンスを逸する。

いわゆるアダルトチルドレンというやつだった。自分は何かおかしいと気づいてから、それがなぜかを知りたくて、ずーっともがいてきた。的はずれなことも多かったため、闇をぬけるまでにものすごい量の時間を費やした。バカの考え休むに似たりっていう、アレを地で行くような。で、気がついたらいつのまにか生きづらさが随分なくなっていた。もう大丈夫って思えるくらいまでには。

2つの出来事の結果に違いをもたらしたのは、30年かけて自分の中の「なぜ」を探り続けた成果だと言えなくはない。たぶん。

 「その結果は我々の行為の進路に一つの方向を与えてくれる」

 とすれば、今の私に何か方向性が見えているはずだが。私に何か見えてるか??正解かどうかはわからないけど。ちょっと感じてることはある。それは「怠惰」と「逃避」の問題だ。怠惰と逃避は、長いこと私の、その場しのぎの常套手段だった。もしかしたら私は、自分自身の力で本当にがんばるってことを、まだ知らない可能性がある。

『俺はまだ本気出してないだけ』って映画あったな。観てないけど。本気出してないって言えば、いろんなことから逃げていられる。挑戦してダメだった時、どれだけ自分が傷つくか。挑戦しなければ、結果が確定することを避けられる。勉強を筆頭に、私はあらゆるものから逃げていた、と思う。がんばることが怖かった。

 怠惰だから逃避するのか、逃避したいから怠惰なのか。このサイクルから抜け出せずにいると、自分自身の価値がどんどん下がっていく。周囲からの評価も、自分が自分に下す評価も。加速度的にダメさが増していく。だんだん自信がなくなって、いろんなことが怖くなって、怖いから動けなくなって、積極性が失われていく。何事にも過剰に緊張する。人見知りになる。いつのまにか「自分は無価値」なことが当たり前になっちゃってて、一事が万事「底辺の自分像」を起点に言動するようになる。するとどうなるかというと…

例えば、こんな私がヒールなんてはいちゃいけない(怯え)って考える。底辺の私などにおしゃれが許されるわけがない!という感覚を前提に思考してしまうためだ。今ならオイオイ、誰がそんなこと決めた!?って思うけど、誰に命令されたわけでもなく、自分が勝手にそうしてただけ。

こうなってくるともう何もかもがダメ。全部ズレちゃう。手がつけられなくなった頃、やっと「まずい!」「もうダメ」ってなる。私はこのしくみに気がつくまで、ものすごく時間かかった。くっそう。時間がもったいない。青春時代からやり直したい!って思うこともある。

 30年かけて、分析はあらかた終わった。今の私の課題は、これからの生き方のほうにある。フロムの言う積極的自由だ。

 私は、いまだにひきずってる逃避と怠惰の問題をテーマにしたい。人生の残り時間を考えても、取り組みの最中に最後を迎える可能性が高い。とにかく今はこれだ。ひとつもがんばってこなかった私は、何かをがんばってみたい。生きづらさの克服のためにしつこくもがいたことが、唯一がんばれたことかもしれないけど、あれはマイナスをゼロにもっていくためのがんばり方だった。これからはプラスを生みたい。これって積極的自由にあてはまらないだろうか。

で、何をどうがんばるか。

  1. 自分が楽しいと思えることをがんばる。
  2. めんどくさいけどやらなければならないこと、やったほうがいいこともある。それをどうがんばるか。

ひとつ反省がある。私は毎日を大切にすごしてきただろうか。こどもたちとすごしたかけがえのない時間に後悔はないか…といったら、やっぱりある。もっとこうしてればよかったという、なんだか哀愁に似た感情がチラつくのだ。上の子の卒業式で「もっとみんなにしてあげられたことがあったはずだ」と泣いていたO先生、あの時の先生もこんなふうに感じていらっしゃったのだろうか。私の、今のこの感じ。これからの毎日に活かしたいなと思っている。

今の私は家にいて、主婦として家事をする毎日だ。主婦の一日なんて、ほんとにどってことない「ただの一日」なんだけど、いつか死ぬ時、後悔せずにすむように、毎日をできるだけ大切にすごしたい。夜、お布団に入って、ああ今日もいい一日だったなと思える日を増やしたいなと思っている。 家事って別に好きじゃない。めんどくさいしね。けれど、なんだろう。うまく言えないけど、日々の家事に取り組むためのモチベーションと、毎日を大切に生きようって気持ちとは、何かつながってる気がする。ここにいる人、おいてある物、すごした時間、思い出、私の大事なもの全部がつまっているのがこの家なのだ。こどもの成長とともに、自分に割く時間が増えたためか、最近よくこういうことを考えるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

読書の記録です。

初めて記事を書きます。

私の趣味は、読書です。系統的には、物語ではないやつ。が、ほとんど。自分の日常にひきつけて、あれこれ考えながら読むのですが、

 あ!

お!

 と感じたこと、歳のせいか、持って生まれた記憶力のためか、すぐに忘れてしまうので、その時々の自分の気づきを忘れないよう、何かに書き残しておいて、折につけて読み返したい。そのためのブログです。

 本の内容を紹介したり、学説を正しく解説できたり、などは一切ありません。

それどころか、作者の意図を全く汲み取れず、的外れでアホなことを書くこともあるかもしれません。

 あくまで個人の趣味のためのブログである、ということを一番最初のページに書いておこう。

 

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私自身のことを少し書くと、優しい夫と、こども2人を持つ主婦です。上は中2、下は小4になりました。彼女らが幼かった頃の、あの怒涛の子育て生活。最近、一区切りついてきたと感じるようになりました。上の子が「こども」の時期を終えようとしているから。もうあの頃ほど、ママを必要としない。世界一大好きだった「特別な存在」のママが、ただのおばちゃんになる瞬間。魔法が…目からウロコがはがれ落ちる瞬間。ついにこの時を迎えてしまったか!と思った。ちょっと寂しいけれど、でも、これで正解なのだ。これからは横並びの関係を上手に作っていけたらいいなと思う。

 で、時間にも余裕ができて、また本を読めるようになってきたので、なにか新しいことをはじめよう!そう思っての開設です。やっぱり、本を読むことは楽しい。今、6月。今年はあとどれくらい、どんな本が読めるかな。