本のハコ

超個人的読書メモ

『風土』和辻哲郎

これも、休校期間中に読んだ本。ちょうど暖かくなってきた頃で、裏庭にいすをだして1日読書したりしてた。まだ蚊がいなかったから。夫は昼寝、上の子はゲームと動画、下の子はリコーダーでエーデルワイスの練習してたな。たのしかった。

この本は難しくて、おもしろいと思って読めたところは全体の半分くらいか。いや、もっと少ないかも。第1章から早くも意味不明だったしなあ。どうも現象学を知らないと、まともに読めない本だったみたい。

「寒さを感ずるとき、我々自身はすでに外気の寒冷のもとに宿っている。我々自身が寒さにかかわるということは、我々自身が寒さの中へ出ているということにほかならぬのである。」これがどういう意味なのか。どうしてもわからず、何度も読みかえして考えてはみた。けど、いまだによくわからん。いったん『風土』はおいといて現象学読んでみようか。けど、難しそう。私にわかるだろうか。

自分と寒さの関係についてだけを単独にぐるぐる考えては、??ってなる状態が続いてたんだけど、実はこの先に、まだ続きがあった。

  • 寒さに己を見いだすのは、間柄としての我々。なぜなら寒さを体験するのは我のみではなく、我々。それが可能なのは寒さを共同に感ずるという地盤においてのみ。他の我の中に出る。
  • 寒さという気象的現象を独立に体験するのではない。暖かさや暑さ、風、雨、雪などとの関連の中で体験されるもの。
  • 引用「このような自己了解は、寒さ暑さを感ずる「主観」としての、あるいは花を歓ぶ主観としての、「我れ」を理解することではない。我々はこれらの体験において「主観」に目を向けはしない。寒さを感ずる時には我々は体を引きしめる、着物を着る、火鉢のそばによる。否、それよりもさらに強い関心を持って子供に着物を着せ、老人を火のそばへ押しやる。あるいは着物や炭を買い得るために労働する。炭屋は山で炭をやき、織布工場は反物を製造する。すなわち寒さとの「かかわり」においては、我々は寒さをふせぐさまざまの手段に個人的・社会的に入り込んで行くのである。同様に花を歓ぶときにも我々は「主観」に目を向けるのではなくして花に見とれる、あるいは花見に友人を誘い、あるいは花の下で仲間とともに飲み踊る。すなわち春の風景とのかかわりにおいては、それを享楽するさまざまの手段が個人的・社会的に実践せられるのである。同様なことは炎暑についても、あるいは暴風洪水のごとき災害についても言えるであろう。我々はこれらのいわゆる「自然の暴威」とのかかわりにおいてまず迅速にそれを防ぐ共同の手段に入り込んで行く。風土における自己了解はまさしくかかる手段の発見としてあらわれるのであって、「主観」を理解することではない。」

認識の対象が、寒さ暑さとか、雪とか砂漠とか、そういうものである場合と、人間である場合とで、考え方っていうか捉え方?みたいなものに違いが出てくるのか?自然が相手でも人間が相手でも基本は一緒?

時間がかかりそうだけどおもしろいから、現象学の本、なんか読んでみよ。その後でもう一回『風土』読もう。